昭和五十六年五月十九日 朝の御理解
御理解第八十五節
「女の身上月役妊娠悪疽に腹痛まず腹帯をせずして産前産後身軽く隣知らずの安産産後よかり物(モタレ物)団子汁をせず生まれた子に五香要らず母の乳をすぐ飲ませ頭痛血の道虫気なし不浄毒断無し平日の通り」
女の方のいわゆる懐妊そして出産とまあ十月十日の前のお道の信心をさして頂けば こういうおかげも頂けるという御教えなんですけれども、あまりににも わたし共の観念からは遠いまあ大胆な事ですからなかなか出けません。例えばつわり等もないとここでは云っておられますね、その気になればつわり、けれどもまだつわりの為に寝込んでしまうというような人すら有る位ですが、私はいつもつわりの方達に申します事は、安産のおかげを頂く為の修業だよと申します。だからつわりも又有難く頂かなければいけないよと、安産の為の修業なんだよ と、本当にそうした例えば苦しみとか難儀という事に対するおかげを頂く事の為の修業であるという頂き方
先達てから水火(西瓜)はおかげを頂く事の特効薬というふうに申しましたのもまあ、そういう意味だと思うんですよね、
その頂き方が大事なんですけれども、これにはどうしても神様を信ずる、生き生きとした水々しい心がなければ出けません。
なかなかそういう水々しい心というものは、いつも頂けるものではありませんもんね、決して神様を疑っておるとか、無信心になっておると云う事ではないのですけれども、生き生きした時としない時というのは、たしかに違うんです、私は最近のここの月次祭の時に思うんですけれども、まあ幹部とも総代とも云われる方達の場合なんかは、きちっと八時の御霊様のご挨拶の時にゃみえておられます。けれども大がいの方が此頃もう御祈念いうならお祭りに間に合いすりあ良いとか、又はお説教にまにあいすりあよいと、いったような方達があのう昔の御信者さん方の中に 合楽の古い御信者さん方の中に多いという事です。遠方から参ってくる、又は新しい合楽の信心に有難いなあと、いうなら新たな心で感じておる人達はもう皆、私がここに八時半のあれですから 八時二十分位まではここに座ってるんです、その間に殆ど参ってみえますね。いうなら その生き生きした心の、あるか無いかです、お月次祭に対するね、だんだんいうならば慣れてくる、この慣れてくる事が恐いです。
そういう程度の時に例えば今日の御教なんかは、とても実行出来るもんぢゃないですね、やっぱり昨日の午後から二人の女の先生方が小野先生がまあ かかりつけですから まいりました。
何日に一ぺんは注射に来ねばいけない、何日に一ぺんはもよう見に来てもらわねば出けんと、いうふうに云われたから そりゃ云われたとおり お医者さんに云われたとおりにしなけりゃいけないと申しましたけれども、なら 先達てから あのう南米の末永先生の所 公子先生の場合なんかは医者にもかからずそれこそ、腹帯もせず注射にも行かず、薬も飲まず、そしてお夢の中に産気づいて
お夢の中で生まれたち云うのですからね、そりゃ四名もの次々ともう本当に神様の働きの間違いの無い こりゃ出産に限ってだけは間違いの無い働きを受けて来ておりますから、いよいよ だんだん度胸が出けてきたんですよね、お産という事はおかげを頂かなければ、つわりもなからなければ だから陣痛苦しみもない、お夢ん中で生まれた。というような、これは私の方の家内なんかの場合も
だんだん そういうおかげを頂いてきております。本当に隣知らずの安産のおかげ とても、つわりなんかという事も 始めの間はあのう 私が北京に居ります時分には つわりも ひどかったです本当です。がこちらへ帰りましてから今椛目に縁についとります
愛子からこっちはもう本当にそれこそ隣知らずの安産で最後の頃なんかには無通分娩というか かえって快感を覚えるようなお産でした。家内が申します、もうその都度都度に、だから一ぺんにちゃ出けんけれども都度都度におかげを頂いて、いわゆる自信が出けるというか、安心が出ける、神様のおかげを頂くという事の確信が強うなってきますと本当に はなれ技的度胸が出けてくる、これなんかは出産だけの事ではない、全ての事にそうだと思う、不安である心配である、毎日お取次を頂いてお願いをする。お願いは勿論しなければならんけれども例えば福岡の総代の高橋さんなんかの場合は日々皆さんも、ここで長々とお届けがありますが、一日の事をずうっとお取次を願われます。万事よろしゅうでは心が落ち着かんですそしてその事を、いちいち 右にしたらよいか 左にしたらよいか たまにゃそん位のこつは自分で分かろもんち云うようなお届けまでなさるんです。所が昨日おしらせを頂いとられるのに、きちっとこう黒の服を着て正装しておられる。そして黒のバンドをこふはめておったのを、白のバンドに取り替えたというおしらせを頂かれたきちっとした信心が出来て居られる 兎に角福岡から何十年間日参しておられるのですからね、しかも ここの御用といや高橋さんが居られない事はないというように 打ち込んだ信心をなさってもうそれこそ徹頭徹尾御神意のまにまに動こうとこういうのです。
だからいうなら 赤字になろうが損になろうが御神意のまにまにお取次頂いての事だからと安心が出けるおかげを頂かねばならんですね、神様にお願いをしてからの事であるからと、そういう信心も段々出けていかれるけれども、私が昨日も高橋に申しました。
あのね、これからはね お取次をこまごましい一日の思いよった事だけを、お取次を願ったら、どうぞよろしゅうでしなさい、まあいうならばお取次の座に座っておる先生がなら お伺いなどの出来ない先生のお取次を頂いておると思うて、お取次を頂けと申しました、今までの黒の帯から白の帯にこう切り替える、右にしたが良いでしょうか、左にしたがよい位の事は自分の心の中に 右、左と
ピンと感じれるようなそれを願っていけ、もうそれ位の信心は出けなけりゃ出けん、ならいつまでもここに私が居るという事ではない。いつ私が亡くなるやら分らん、そん時にお伺いせんなら前にゃ進まれんというような事では困る。もうぼちぼち黒の帯から白の帯に替えていけと、まあそういう信心を私は今日の御理解でいうならばね、教祖の御教えを本当に実行出けれる、一たん自分の思い一つで信心をいうなら、おかげを受けていこうという生き方、まあいうならば今までの高橋さんの信心からいうなら心もとない事があるかもしれません、そしてそれで心配さして頂いても、お取次頂いての事名のだから右左をお伺いしてから、右にした左にしたといったようなものではない。いうおかげを頂かなければいけないと、これは高橋さんに対してですよ。皆さんの場合はやはり ならお伺いもして右左を決めていかねばならない人もあるし、又それが安心であるという場合もありますけれども、だんだん信心をさせて頂いたら、まあいうならば身凌ぎの出けるような信心にも ならなければならないという事。自分で自分の事位はもう私の心ん中に働いて下さる神様を信ずるという事なんです。だから私が右と思うたら、右のおかげを必ず下さるようになるです。そん為には、やはりいよいよ心をですね、神様へ向けておらねばならんと同時に神様からご覧になっても、いつも精進の心というのが なからなければ出来るこつぢゃないです。でないと横着になってくるね、いうなら実意を欠く事になる。実意な信心さして頂いてどうぞ今日もよろしゅうという中に、よろしゅうという心ん中に いわば実意もありゃ、度胸もあるいよいよ時にゃと思う時でも 自分の心に閃いたそれをピシッと
こう行うていけばおかげになると確信の出けれるような生活をさして頂いて 本当の安心という事になるのぢゃないでしょうか。
様々な問題 それはそのままいうなら、おかげの頂けれる懐妊のおかげと同じ事とおっしゃるのですからね、いろんな問題があるという事、よいものが生み出される為の懐妊しとるとぢゃもん。
だからそれを大切にして行くと云う事がです いわばその中にゃ様々つわりもあれば、やはり懐妊のまあ苦しい事もありましょうけれども、生み出される いうならお腹の大きい人に、ほんに毎日御苦労なこつですね、苦しいから困ったこつですねちゃ云わん。
もうどんなにそりゃ大きなお腹かかえておってもです、結局おめでたいとしか云わない、それは必ずよいものが出産する。生まれてくるからなのであります。お互い難儀をかかえておる、例えば高橋なんか 様々な難儀を、こうかかえておられますわけですけれども困るのち云うこつはいらん、それこそ手をたたいてこちから喜んで上げたいごたる感じがする。そういう大事な時であるから、いよいよもって自分の心一つで、おかげになるとおっしゃるのぢゃから
自分の心一つをいうならば、有難い心に、堅実 新たな心。昨日一昨日でしたが 宮崎の支部が出来ましてから 今年がまる五年になるんです。だから五年の記念祭をこの十一月に仕える事になりました、その記念祭を仕える為に、何回も本当にしかしまあ熱心な事ではあります。宮崎だけならよいけれども、延岡分会、高鍋分会と皆信者さん達が集まらにゃならない、どこにか。それも何回も何回も練りに練って今度の、言わば記念の御大祭にはぜひ親先生をお迎えする、今まで私があちらに行かなかったんですね、やっぱ遠方ですから。今度はどうでも親先生をお迎えする、そん為にはどっか
公会堂でも借ってでも、それこそ公開講演のような事でもとお話が出たそうです。もう宮崎の教会の先生方にも 教会にも通知していうなら合楽の信心がかく立派だという事を、教会にも先生方にも見てもらいたい、分かってもらいたいと そういう話も出ておると、ですから、それはちょっと行き過ぎだろうという説と、それをやっていこうという積極的な話がこう二つになっておる
今日もその会合がございますからどうぞ万事よろしゅう おかげ頂きますようにと、これは延岡の田中先生から電話がかかってきた私は申しました、その事を神様にお届けさして頂いとりましたら、あの葱坊主を頂くんです、あの葱はもう食べられんようになると、坊主が出るでしょう、葱という事はこれはまあ、神主さんの事を、弥宜(ねぎ)という。いわゆる神様に奉仕する人、ここでいうならば、お道の先生というような時に、葱のおしらせを頂きます。
所がその葱がもう坊主が出てるというのは、食べられんとでしょうが、こりゃもう先生になったから、すばらしいという事ぢゃないです、もういわゆるマンネリ化するというか、私は先生ともう兎に角いくら先生でも、信者でも日に日に新に、三代金光様ですらが
日々を新たなと、おっしゃるような さらなものを本当なものがあるなら、それを求めて止まぬという、誰が何というても、それを頂こうというような意欲的な信心が 枯れた時には葱でも坊主が出とる時ですから、役にゃ立たんです。そういうものを例えば集めたからというて本当はお役に立たんから、教会に通知をするとか先生方にも来てもらうというような それは止めて下さい、云うてまあ申しました事でございますけれどもね、なら御信者の中でもやはり二十年。三十年と信心をなさっていられる事があります、合楽でやっぱりこういうなら坊主が出てるような事はないでしょうか、いうならば 御祈念はのう、お月次祭にも もう時間に間に合いすりゃよか、というふうにゆっくりした気持ちの時にゃもう、すでに坊主が出かってる時ぢゃないでしょうか。もう兎に角あのう信心はじめのように一時でも早う教会の近所に来たら、かけ足をしたいような心 そういうような心、昨日の御理解ぢゃないけれど、赤飯を炊いて祝うような心というものが 私は新(さら)な心と思います。
そういう新な心がある時ぢゃなからねば、今日の御教なんかは実際実行も出けないと思うです。神様を生き生きとして頂いてしかも
体験に体験を積んで度胸が出けてくる。そしてはじめて いうならば信心のない者から見たら、びっくりするような いうならばはなれ技的な信心も身についてくるというのであります。
まあ例えば妊娠のおかげを頂いて つわりはあたり前、又陣痛はあたり前、生み出す苦しみはあたりまえではなくて、教祖様はその陣痛もない、隣知らずの安産のおかげを受けられる、又はもう生まれた子五香要らずとまで おっしゃっておられます。
懐妊したからというて、腹帯もいらん、腹帯よりも信心の帯をしっかりせよと、おっしゃっておられる。勿論おかげを頂いたら、つわりもあるはずはないと断言しておられますけれども、実際は私共の信心は、そこまで行ってませんから、けれども私は例えば苦しい事であっても それをいうなら安産のおかげを頂く為の修業として有難く受けられる所の信心位は頂きたい。為には自分の心がいうならば、葱坊主というか、マンネリ担ったような心をいつも、改め改めして、新な信心に進んでいかねば 生き生きと、いつも水々しいおかげを、いうならば自分で身凌ぎの出ける位な、黒の帯から、白の帯に替えていくという 高橋さんのおしらせぢゃないですけども、そういうおかげを頂く時に、はじめてそれを力という事に
なるのぢゃないでしょうかね。
どうぞ